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人間と環境

〜白川郷〜

平栗尚子

 

目次
  • 合掌作りと電源開発の白川郷
    (白川村概略図)
  • 秘境の村白川郷
  • 白川郷平瀬温泉
  • 白川(平瀬)との出会い
  • 白川(平瀬)での生活
  • 写真
  • 感想
合掌作りと電源開発の白川郷

 

秘境の村白川郷


 荘川上流の白川郷は明治の初年まで、荘川・白川両村に清見村森茂を併せて、計四十二部落を総称した名前であった.白川郷の中心地である大野郡白川村は岐阜県の北西部にある。白川という地名は、周囲の高山から流れ出る谷水の美しさから名付けられたという。いっぽう気候は山岳気候に属し、年平均気温9・4度、年降水量が二千三百七十ミリと日本でも多雨地方である。初雪は十一月中にあり、十二月中旬より根雪となって一月から二月には積雪量が三〜四メートルを越え、白川郷は観光客のいない昔ながらの秘境の静けさに戻る。四月になると気温は上昇し、積雪は山岳を残して消え、人も花も革も虫も長い雪の中の生活から息を吹き返し、白川郷に活気が蘇る。中旬から下旬にかけて春の訪れも本格化すると、村人達はゼンマイ・フキノトり・ワラビなどの山菜を取りに出掛ける。五月になると水芭蕉の花が咲き、美しい新緑の季節を迎え、八月になるとツツジ、十月の中旬から下旬にかけて紅葉の盛りとなって、再び厳しい冬へと移り変わる。この四季の美しさは一見の価値がある。
 白川郷は正倉院文書や藤原兼実が著わした「玉葉」等から判断すると、かなり古い時代から開け、物資や人の従来が盛んであったことがうかがえる。文永二年(一二六五)、後鳥羽上皇の第一二皇子喜念坊善俊が郡上白鳥から鳩屋に入り、熱心に浄土真宗の布教に努め飛騨真宗の基礎と勢力を築きあげた。また信州松代の内ケ島将監為氏は足利義政の命を受け白川郷に侵入し、牧都(荘川村牧戸)に城を構え、さらに寛成五年(一四六五)には保木脇に帰雲城を築いた。文明七年(一四七五)には言念坊九代目明教の引きいる真宗勢力を破って白川郷に確固たる地盤を築きあげた。ところが天正十三年(一五八五)11月、帰雲城の背後にある帰雲山(千六百二十メートル)が大地震によって崩壊し、時の城主内ケ島理氏以下主従や牛馬はことごとく圧死し、百二十年におよぶ内ケ島氏の支配に終止符がうたれた。帰雲城が埋殺した時、城内には近郊の天生金山等から産出された金銀財宝が一緒に埋没していると伝えている。
内ケ島滅亡後、高山の金森長近の支配をうけ、元禄5年(一六九二)から飛騨が幕府直がい領となったことにより、高山代官所の支配する天領として明治に至った。
 今では世界遺産に登録され海外からも多くの観光客が訪れている。

 

白川郷平瀬温泉


 飛騨を訪れる人々の多くは、自然の美しさや古い歴史、人情のこまやかさなどに多くの魅力を感じるというが数多くの観光資源の中でも温泉の存在ということが、コースや宿泊地を決定する上で大きな要素になっている、)温泉というと湯治が目的であるかのように泉質による効果を説明するが、一般的には温泉の利用は旅に魅をそそる程度のもので医学的な効果は期待できない。たとえそれを期待しても効果が表れるまで温泉に入り続けることは経済的に無理な事になってしまった。長期にわたる入浴があってはじめて温泉の効果があらわれるものである。一泊や二泊の宿泊で温泉の効果をその通り期待するのは無理である。このような事情であっても飛騨の観光ブームとともに温泉のあるところには着実に旅館が増え、客を招く方策がはかられている。ここは温泉法に従って摂氏二十五度以上の温度をもつ白川郷平瀬温泉について述べてゆこう。                                
 江戸時代から白山登山とともに有名な大白川温泉一体がダム建設のため水没するのを惜しんで昭和四十二年に引き湯して営業を開始した。名称は大白川温泉であったが集落名と一致させるため昭和五十四年白川郷平瀬温泉と改称した。泉質は含食塩硫黄泉で胃腸病、神経痛、糖尿病によく、子供に恵まれる「子宝温泉」としても知られる。
旅館十軒、民宿五軒収容人数四百五十五人の温泉に発展してきた。昭和五十五年には国民保養温泉地に指定され、これを契機に家族ずれで楽しめるサイクリングロード、テニス、スキーなどの施設を伴った温泉に整備されつつあり、昭和六十年には「クアハウス白川郷」も開館した。白山の登山基地として、御母衣ダム、合掌造りの何の見学中心地として発展の可飴性は大きい。

 

白川村(平瀬)との出会い


 一昨年私は、当時の自分を変えるため家を離れ友人と住み込みのアルバイトに出掛けた。きっかけは、友人とアルバイト情報誌を見ていて、親元を離れ自分自信を鍛えるため帰りたくても帰れない場所を選んでいたところ、白川村の平瀬にあるふじや旅館をたまたま見つけ、すぐに電話をかけた所すぐにでも釆てくださいとの女将さんの返事で、決定した。これも運命的な出会いであったと思う。

 

白川村(平瀬)での生活


 私が白川村へ行ったのは、6月の初旬でちょうど梅雨時期だった。初めのころは、旅館の仕事につかれ毎日の生活にあまり変化を感じなかったが仕事に慣れて来たころから生活に余裕がでてきて自分の時間ができた頃、近くにコンビこがなかったり、本が読みたくても本屋がなかったり、遊びに行くにも交通手段が何もなかったりと、様々な不便な点がでてきた。そんな頃、近所に住む同じ世代の子と仲良くなりその子がきっかけで、白川郷の荻町や平瀬や荘川村の子とも仲良くなった。
 その子達と仲良くなったのがきっかけで私は色々なことを知った。週に2回ぐらい、勤務後みんなで遊んでいた。軽自動車で山道を走り川で遊んだり、白川郷で1番高い丘に上り七夕の日天の川を見たり、蛍を見に行ったりとたくさんの思い出がある。七夕の日、みんなで地面に寝っ転がって見た星は、今まで見た星とは壮大さが違った。今でも星を見るとアノときのことを思い出す。本当にきれいだった。蛍も生まれて初めて見た。車で案内され地元の子しか知らない穴場へ着き、車のライトを消した瞬間フワーと蛍独特の光りが窓全部に見えたときの感動は今までにないものだった。
 旅館の仕事で昼に3時間ほど休憩があり、旅館の前に流れる川へよく行った。夏だというのに足を3秒つけるのが精一杯なほど川の水が冷たかった。川の流れを聞き、山や空の雲の流れをずっと見ていても飴きなかった。あんなに心が優しくなれる時間はなかった。
 旅館の風呂は温泉がわき出ていて毎日の旅館の仕事の疲れを落としていた。肌もツルツルで女性にとっては本当に最高だった。
 旅館でのお客様に出す食事でワラビ・エゴマ・なつめなど食べたことのない山菜などがたくさんなった。

 

写真

台風の日のクアハウス

川を眺める

山と空と私

初秋の萩町の合掌造り

一瞬のうちに崩壊した
帰雲山

 

感想


 私の中で白州郷の平瀬に行ったことで、小牧では体験できないことをたくさんしてきた.こ そjlは、生活していくうえで不便な所は確かにたくさんあったけど、それ以上に自然と人とのあり方みたいなものを学んだ。そして、自然(山・川・空)が人にたくさんの優しさを与えてくれる事を知った。
 人は便利さを追求し続けてきたが、便利さから遠ざかっても便利さがない上での何かを得ることができる。便利さを普通と思っていることは、人を麻痺させている。
 近隣の人々の接し方も違った。人の心の温かさも自然によって与えられているのだろうか、現代人は毎日時間に追われ生活しているが、白川にいるときは、太陽や星を見て時間を感じていた。
 2ケ月という短い間だったけど、色々なことを感じ、色々なことを考えた。
 これから人が生活して行くうえで生活が豊かになるのではなく、心を豊かにして行く環境作りをすべきだと思った。

 

参考文献

        岐阜県地理あるき

        1986年1月20日 初版発行

        著者代表 伊籐安男

        発行者 矢崎正治

        発行所 大衆書房