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岩谷郁子


もくじ

 

はじめに

一身田寺内町位置図

真宗高田派の確立

寺内町一身田の繁昌

一身田御略絵図

境内建物の配置図

御影堂平面図

如来堂平面図

あとがき

参考文献


はじめに

  6年前私は私立の高田高校に入学した。仏教の授業が週1回、そして月に1度高田本山という寺へ全校生徒が参拝する仏教を取り入れた高校だった。仏教の授業は心打たれる話が多く感銘を受けることがしばしばあった。月に1度の参拝は全校生徒が寺の本堂に入りきらないので本堂と体育館とにわかれ経をあげ、その後お説教を聞いてお饅頭をもらうという私の中では授業がつぶれて少しうれしい小さなイベントだった。

 通学時本山に向かう観光バスを見たり、お年寄りがぞろぞろ本山に向かって歩いているのを見て、この寺は有名なのかなと思っていた。

 6年前の私は建築に興味がなく、ましてや日本の良さなどさっぱり分かっていなかった。日本よりも西洋のほうが優れていると思っていた。浮世絵もきばつい色で線があっさり引かれていて、平面でつまらないと日本史の教科書を見て思っていた。やっと今になって本山の良さに気がついた。大きくて古くて味のある建物だとはじめて気づいたのだ。日本人のおくゆかしい、ささいな心づかいがかっこいいのだ。


一身田寺内町位置図


真宗高田派の確立

 真宗の開祖親繋が、関東の各地方を教化して広めた念仏は、その直弟子顕智・善然によって伊勢国へも伝えられた。しかし、その後この地においては、あまり大きく発展することがなかった。伊勢国に念仏が広まるのは、それから200年を経過した15世紀も末近い頃、下野国(現栃木県)高田専修寺の真慧が、顕智の志を継いで、この地へ入ってからであった。彼は親繋が説いた専修念仏の教えを人々に説いてまわった。仏教によって救われるためには、必ずしも厳しい修行も必要とせず、阿弥陀如来の救いを信じ、ただ南無阿弥陀仏と唱えさえすればよいのだ。仏教は、寺を建てたり、仏像を作ったりすることのできる貴族や金持ちのためにあるのではない。むしろ貧しい一般民衆のためにあるのだ。阿弥陀にとっては、善人よりもむしろ悪人こそが救済のおめあてなのだ、と親繋の「悪人正機説」を説いて、民衆の心の中にくい込んでいった。そして、人々が集まり念仏を唱える場として、「道場」を建て、その本専として「南無阿弥陀仏」の6字名号、または、「南無不可思議光如来」の9字名号を書いて与えた。

 彼の道場は多くの信徒を集めることになり、伊勢国内一円に彼の教えが広まっていった。三重県内のおける真宗高田派の基盤はここに確立された。

 彼の教団はその後、いろいろな曲折を経て大きく生長し、江戸時代になると一身田に大伽藍が建設されて県下最大の寺院となっている。中央の御影堂は、木造建築としては全国ベストテンに入る巨大な堂であり、如来堂は華麗な様式美を誇る。


寺内町一身田の繁昌

 津市北郊の一身田は、今でこそ大きく膨らんだ町になっているが、もとは周囲を塀で囲んだ、ほぼ正方形の集落であった。塀は幅二間半(4・5メートル)から三間〈5・4メートル)、その内側にほぼ同じ幅の土居を巡らしていて、城郭を思わせる構えであった。町への出入り口は、正式には3ケ所だけの設けられた橋で、その内側に門があり、門番がいて、明六つく午前6時)に開門、暮六つ(午後6時)に閉門し、不審な者の立ち入りをチェックしていた。

 町の総面積は十八町こ反余(18・2アール)で、そのうちの半分近くを真宗高田派本山専修寺の境内が占め、残りが専修寺の末寺や家臣と、一般町家であった。つまり専修寺が末寺や家臣のほか商家などをとり込んで作った町であって、道路も城下町に多いいわゆる「遠見遮断」の丁字型交叉になっており、この町が計画的に造成された町であることを示している。典型的な寺内町であって、塀は今も良く保存されている。

 寺内町は、中世末期から近世初頭にかけて、摂津・河内・和泉などで、真宗寺院を核として造成されたが、三重県下ではこの一身田しか知られていない。

 一身田寺内町の成立は、一五世紀末からこの地方で精力的に民衆教化を行っていた専修寺第十世真慧(1434〜1512)が、ここに寺院を建設し、その寺内があらゆる世俗的権力と無縁な「公界」の聖地であることを宣言し、それを国人領主長野氏が認めたことに端を発する。

 そののち曲折を経て、真宗高田派教団がここを本山とするようになり、寺名も関東高田の専修寺を踏襲することになるが、集落の周囲に塀を作り、寺内町としての形態を整えたのは一六世紀末であった。そしてさらに万治元年(1685)、津藩から十町四反(10・4アール)の寺地の寄進を得て、絵図にみるような寺内町が完成したのであった。

 一身田には、摂・河・泉の寺内町に見られたような自治組織の存在は見られない。しかし町の住民は専修寺と強く結ばれ、それによって発展した。そのひとつに専修寺のし堂金を商売の資金として融資してもらえる特権があり、これが町の商売繁昌をもたらした。

 特に塀の外側であるが、南入り口の門前に成立した橋向町という門前町集落は、歓楽街として殷賑を極めた。ここには二五軒の水茶屋があり茶酌女と移する遊女を抱えて、遊廓の感があった。文化元年(1804)伊勢参宮をした滝沢馬琴は、その旅行記『き旅漫録』で、一身田を伊勢古市、松板に次ぐ参宮道第三位の遊廓と評価している。

 橋向町には劇場もあり、馬琴が、「一身田も至極繁盛なる地にて、ここにも芝居あり。八月初旬、大阪より片岡仁左衝門などくだりて芝居あり」と記しているように、しばしば一流の歌舞伎役者がやって来ている。そのような劇場経営ができたのも、専修寺の保護と資金面での援助があったからであった。


一身田御略絵図


境内建物の配置

 正保二年(1645)に堂宇が焼失し、万治元年(1685)津藩主藤堂高次による寺地の寄進があり、伽藍の再建がはじまった。境内地は、西方へ拡張され、東西約368メートル、南北約246メートルのほぼ方形の境内地とそれに接して、南、東側には、子院、坊官の屋敷、北には侍衆の屋敷を横えていた。

 境内は殿舎、伽藍、御廟とその他の付属建物を配置する。東西のほぼ中央に御影堂、西よりに如来堂を配し、南側道路ぎわに、それぞれ山門、唐門が建つ。敷地西よりには御廟を構える。御影堂の東南に鐘楼、東より前半には道路沿いに諸講に関係する建物が配されていた。後半部東半には殿舎の諸建物が立ち並び、如来堂背面には大規模な回遊式の庭園、雲霊園があり、茶席安楽庵が設けられている。明治以降になると、殿舎や付属建物の改変と設廃が繰り返されてきたが、近年更に正面道路沿いの建物は失われて、現代建築に建て替えられている。

 焼失後の再建は御影堂から始められ、寛文六年(1666)に成就、宝永元年(1704)山門、寛延元年(1748)如来堂、寛政十二年(1800)通天橋、天保十五年(1844)には唐門が成就した。御廟は宝暦十二年(1762)頃の絵図にはすでに拝堂、唐門が描かれているが、現在の唐門、拝堂は安政元年(1854)頃になった。

 殿舎も焼失後まもなく再建にかかったと思われ、宝暦十二年(1762)頃の絵図によると、すでに形態が整っている。その後の絵図によると変遷が甚だしく、対面所以外の建物は一部明治期に移築が行われた他はほとんど建て替えられて現在に至っている。

 正保焼失後唐門上棟まで約200年間を費やして現在の伽藍が整備されてきたが、主要な建物は約40から50年を区切りとして、本山としての規模を持って徐々に整えられてくる。長年月をかけた造営ではあるが、その配置に一定の縄張りが再建時から計画されているようである。

 如来堂を伽藍の中軸線にしてみると、御影堂の中心まで約240尺(72メートル)御廟の中心まで約221尺(67メートル)とはぼ振り分けになり、御影堂から山門まで約215尺(65メートル)に配置して大規模な伽藍形態をもっている。このように御影堂、廟墓の位置を決めて縄張りを行っているのを見ると、藤堂高次寺地寄進時にすでに伽藍の規模と配置の全体に対する計画があったことを思わせる。

 また背後の広大な回遊式庭園は寺地内の遊水池の役割ももっていたと思われる。


現状配置図


御影堂平面図


如来堂平面図


あとがき

 この研究で寺のすべてを知ったわけではないが、歴史を感じ取ることができた。寺を建てる際に、思うように作業が進まなかったり、いろいろな試行錯誤の上で完成した寺に気軽に行っている自分が申し訳ない気分になってきた。むかし民衆の心の支えとなり親しまれてきただけあり、現在生きている私もその魅力に引き込まれてしまった。今までは大きさに圧倒されるだけであったが、むかしの人の苦労や寺を建てた人の思いいれを心に刻み、今後は感謝の意を持って訪れようと思う。


参考文献

一身田寺内町町並み調査報告書

津市教育委員会

 

津・久居の歴史(上巻)


参考写真