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「大府市」まちの由来

秋田純子


目次

 

はじめに

大府市の由来

熱田神社

おわりに


はじめに

 愛知県大府市この場所に住むようになり、18年がたとうとしている.その前は名古屋市内にいたこともあり、引っ越してきた時はすごい所へ来たな、という印象をうけた.徒歩15分のところにある小学校へいくまでには、舗装されていない3つの池と舗装されていない川があり、そばには牛小屋まであった.学校のまわりは、小高い山と田んぼだらけだった.今では、そのほとんどがなくなった.3つの池は、埋め立てられて住宅やスーパー、保健所、本屋などいろいろなものが建った.川は舗装され、土手にたくさんあった草花はなくなり、山も気が付いたらなくなっていた.昔のことを懐かしく思い出すことはあっても、そもそものこの土地の由来など、たぶん農民が多くを占めていたのだろうと思うくらいで、深く知ろうとはしなかったし、また考えもしなかった.数年前から、祭事や大晦日、元旦に神楽笛を吹くようになっても、その神社の祭神がだれで、どんな由来があるのか知ろうとしなかった.今回の課題によってそれを調べる機会を得て良かったと思っている.


大府市の由来

 大府市は、むかし大符といった時代もあり、また大夫村と書かれた古文書もある.貝塚や古墳などの遺跡から、縄文式時代から人が住み始めたものと考えられている.市の名前の由来は七津大夫という人物がもとになっているようだ.

 室町時代応仁の乱(1467〜1477、応仁こ年〜文明九年)の後、朝廷の高位高官はひそかに都落ちして難を避けた.大府にも七津大夫という者が、原の大清水に七津屋敷という御殿を設けて居住したが、鞍流瀬川の氾濫に遭って、今のスクモの文化農園のあたりに四方に濠を掘り邸宅を築いて本居を定めた.そこを城池と称した.

 大夫は常に烏帽子、直垂で挙動温雅、風格があって、近郷近在を祈祷し社寺を巡行した村人は尊敬して大夫様と称し、「村の名を何と呼んだらよいだろうか.」とたづねたところ、「大夫村」がよかろうといわれたので大夫村となり、後に大符村、大府村と杯するようになったという.

 古書に「1351年観応二年三月、阿久比の松平伊予守の臣、嶋田三右衛門浪人して農民となり、此地に来り、居を構えて庄屋となり、南嶋、中嶋に散在する僅か二、三十軒の人口を給ふ、即ち大夫村之地也」とあって大夫村の起源ということである.

 延合寺の1699年元禄七年七月の古文書に「当村大志水の下七津屋敷に滝本中納言と申す公卿衆居られ侯由、申し伝え侯」とあって古くから滝本中納言と七津大夫とを同一人物としている.横根の正願寺の宝物である巻物の末尾に1466年〜1486年応仁の始めから文明の中頃迄、大府に隠棲した地方疎開者であったことが記されている.又、七津大夫とは熱田神宮の大夫、即ち万才師でここから発祥、居住したので大夫村と称したという説もある.


熱田神社

 景行天皇のころ110年に日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征の際、大高の地に来たところ、東は海で渡るに船なく四方をさまよい、土民に尋ねると、ここから少し南に船を渡す所があると言ったので、更に生路へ行った.その時、尊は喉に渇きを覚えたので土民に井戸を掘らせて喉を潤した.それから三河の矢作の里に行き、矢を作らせたのでそこを矢作の里と称した.

 後世になり、この日本武尊が東夷征伐のおり休息された場所を記念して、室町時代1441年嘉吉六年に永井七兵エが祀ったと伝えられている.この神社は1671年明治四年に村社に列せられた.村神社を明治六年に熱田神社と改号し各組の氏神を廃して大府村の氏神をこの神社に一本化した.この社頭に目通り廻り1丈高さ10丈の松の老大木があって、ありし昔を物語っていたが、1919年大正8年の落雷で枯死した.

 明治維新の頃は境内も狭く社殿も小さなものであったが、年と共に神域も拡大し、社殿も新増築した.

 毎年10月には五穀豊穣を願った祭りがあり、厄年氏子の餅投げ、みこし、山車、馬につかまって走る「まんと」などが行なわれ、雅楽と神楽の奉納も行なわれる.また、大晦日と元旦には厄払いの祈祷と雅楽、神楽の奉納が行なわれる.

 現存する建造物は、

 本殿  (神明造檜皮葦)※

 渡殿  (平屋造銅葦)

 拝殿  (大破風造瓦葦)

 末殿  (祠造)

 神饌所 (平屋造瓦葦)

 社務所 (平屋造瓦葦)

 

※ 神明造り

伊勢神宮の内宮・外宮は天武天皇のとき、20年ごとの式年造替の制が定められ、持続天皇のときの第1回造替から今日まで60回の遷宮造替が行なわれたが、正殿や宝庫、野天の祭場、門と垣などからなる神域の構成と建築形式によく古制が保持されて、奈良時代の古記録と大差をみない.正殿の形式を唯一神明造りといい、3間に2間、かやぶき、切妻屋根、平入り、高床の白木造りであって、普通の掘立柱のほかに側面中央にむね持ち柱を添え、破風板が屋根を貫いて千木(ちぎ)となる手法を特色とする、簡明素朴なうちに白鳳時代の洗練された美しさが忍められる.伊勢神宮正殿に類する型を神明造りという.


おわりに

 たぶん農民しかいなかったのだと思っていた.まさか大府市の名前がお公卿さんに由来していたなんてとても驚きだった.調べていて他にもいろいろ発見があった.どうやら縄文式時代からこのへんには人が住んでいたらしいし、通っていた小学校のまえにあった川とその付近一帯は古戦場だったらしい.また、自分の住所にもはいっている柊山という地名は、昔このあたりに柊の老大木があったためであり、その木が立枯してしまって、その木の一片を祀ったのが柊山神社であるらしい.小学生のころ、お祭りのとき、お菓子をもらったのはそういえばこの小さな神社の境内だった.知らなかったことばかりだ.

 一番の収穫は、自分が神楽笛を吹いている神社について知れたことだ.以前は、祭神すら知らなかった.恥ずかしいことである.調べたおかげでどうして神社の境内に日本武尊(やまとたけるのみこと)の銅像があるのかがわかった.また、大正のころ、境内には松の老大木があり、落雷によって枯死し、その後その松の木が競売にかけられ、当時の金額としてはかなりの値段でうられたらしい.神社の建造物の造りも知ることができた.きっといっしょに雅楽や神楽をやっている人でも、知らない人がほとんどなのではないだろうかと思う.少し自慢したい気分になった.