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名古屋市・西区の歴史

大井ちさと


目 次

 

1 西区のあらまし・西区の歴史

2 町並み保存地区の紹介   

3 学区紹介         

4 名古屋の由来・名古屋区  

5 学区の地図紹介      

6 写真紹介         

7 感想           


・私は、愛知県名古屋市西区にすんでいるので、西区の町を調べてみました.

 

西区のあらまし

 明治41年4月、名古屋市に初めて4区制が実施され、西区が誕生しました.その後、隣接町村の編入や増区による区域変更など、幾多の変遷を経て今日の区域になりました.

 平坦な区域の中央部を庄内川が流れ、その南部は名古屋城築城当時の城下町とそれに隣接して順次名古屋市域となり発展してきた地域であり、庄内川の北部は、昭和30年に名古屋市に編入され、住宅地域として発展し.平成5年8月には地下鉄と名鉄犬山線の相互乗り入れが実施して、名古屋の北西部の玄開口として役割が期待される地域です.


西区の歴史

 歴史は、古く慶長の昔「清洲越(きよすごし)」によって住民はもとより神社仏閣、橋りょう、職人、商人、さらには町名に至るまで名古屋の地に移さました。江戸期の面影をそのばせるものとして、円頓寺通の東詰の堀川にかる五条梼、旧大船町の伊藤帥の輔橋法による土蔵をはじめ、防火・防星を兼ねた土蔵の棟々、四間幅に整備された「四間道(しけみち)」などがあり、市の歴史を探る貴重な文化財となっています.また、市の町並み保存地区として、この「四間道地区」と寛文7年(1667)に通じた、名古屋城下から岩倉方面へ至る旧岩倉街道沿いで、町家・土蔵など町並みが残っている「中小田井地区」が指定されています.


町並み保存地区

 町並み保存地区とは、都心に残る古い町並みを優れた統一性をもった文化遺産として、住民の理解と協力により後世に残していこうとするもので、市が保存事業を進めているものです.

 西区内ではこつの地区が指定を受けています.


A 四間道 (しけ みち) 地区

 四間道地区は、名古屋城下町の西にある堀川西岸に位置し、清洲越で商人が移り住んだ町です.大船町通およぴ四間道沿いに建ち並ぶ町家・土蔵の景観は、近世から近代にかけて堀川の

水運を利用した商業活動の繁栄を物語るもので、戦炎を免れて市内に残る9雀一のものです.四間道は元禄13年く1700)の大火の後、防火兼防備用として、当時三間が標準であった道幅を四間(約7メートル)に広げたところからこの名前がついたといわれます.

 また、大船町通沿いには、川伊藤と呼ばれた御用商人の伊藤家があり、住宅と土蔵は県指定文化財になっています.

 四間道の土蔵群


B 中小田井地区

 中小田井は、庄内川の右岸に位置し、旧岩倉街道沿いに形成された町です.寛文7年(1667)に、名古屋城下から、岩倉方面へ至る岩倉街道が開通、かつては岩倉村やその周辺の野菜類を枇杷島の青果市場へ運ぶ人々が往来し、堤防の手前にある中小田井で一息ついて、食事をしたり、生活用品を買ったりする人でにぎわいました.このため街道沿いには商住併用の木造の町家が建ち並び、宿場町とは違った町並みが形成されました.また庄内川の洪水に備えた構造を持つ水屋などの建物があちらこちらに見られます。

 旧岩倉街道


学区紹介

(1)那古野学区     

 名古屋の地名が由来する歴史の深い町で、語源はナゴ(霧)の多い原野の意などと伝えられています.堀川の西岸には、市の町並み保存地区に指定されている「四間道(しけみち)」地区があり、土蔵群が連なる特異な景観を見せています.また、大須や大曽根と並ぶ古い商店街、「円頓寺(えんどうじ)」を有する商業地域でもあります.


(2)幅下学区

 城下町にあって台地に遣られた商人街や 家人街を上町(うえまち)と呼んだのに対し、平たんなこのあたりを幅下と呼んだのが由来とされています.幅下学区で忘れてならないのが、菓子の町として全国的に有名な親道、明道町で、文政のころからこの地に成況を見せはじめたといわれており、交差点付近には大小の卸問屋が軒を連ねています.


(3)江西学区

 今は幹線道路となっているし道江川線は以前は、江川という川が流れており、その西に位置することから江西という名がつけられたといわれます.


(4)上名古屋学区


(5)児玉学区

 戦団時代に武将、丹羽長 の祖先が、武蔵の固から移り住んだとき、地名もうつして児玉村にしたと伝えられます.明治末期になって名古屋地方に先駆けてメリヤスの工場が建てられ、最盛期には本市生産の4分の1が児玉学区で生産されました.しかし戦後になると工場も小規模のものとなり、住宅地帯へと変化していきます.


(6)城西学区

 名古屋城の北西部に位置し、城下町の一角として下級武士の 屋敷を中心に、城に出入りする商人や職人が多数生活するなど古くから栄えた町です.明治になると良水の得られる江川の両側には染色工場が建ち並び、今でも大小の工場が点在しています.また近年、堀川右岸沿いに禄通が完成し、春には、桜並木が目を楽しませてくれます.


(7)栄生学区

 北を22号線、南を名鉄名古屋本線に囲まれたあたりが栄生学区です.明治初年まで、このあたりは、栄村(さこむら)と呼ばれた水田地帯で、地名は狭所(さこ)からきているとされます.


(8)庄内学区

 もともとは庄内川の堤内にあった村が度重なる洪水に悩まされて、慶長年間に現在地に移住しました.その後庄内川橋や新名西橋の架橋により交通利便の良いことから、名古屋北西部の玄関口として発展し、染色工場や毛織物工場が進出しました.最近では地下鉄の延長により、高層マンションの建設などが進んでいます.


(9)稲生学区

 稲生という地名は、学区内にある伊 神社の「イヌ」がなまって稲生の字が当てられたとも、昔、藺(い)草を産出していた 沼から来たとも伝えられています.


(10)枇杷島学区

 今から800年程前、平清盛の怒りに触れた前関白太政大臣藤原師長が尾張に流され、里の根と親しくなるも、京に帰ることになり、根に愛用の「白菊の琵琶」を与えて別た・・・・・という伝説が枇杷島の由来になったとされています.


(11)榎学区

 学区の中央を東西に抜ける旧美濃街道は古くから栄え、榎の名は、街道筋にある白山神社が境内に榎の大木を擁し、榎権とも称されていてことによるとされます.また区内の官公署が集中しており、文教施設も多く存在しますが、これは尾張藩家老水家の下屋敷があったところで、広大な土地があったからだと考えられています.


(12)南押切学区

 明治以前は押切村と呼ばれていたところで、職人の町でした.押切の名は、鴛鴦(おし=おしどり略)の生息地に由来し、鴛鴦喜里と書いたなどの説もありますがはっきりしません.


(13)山田学区

 昭和30年、山田村が西区山田町として名古屋市に編入したときは全町が1学区でしたが、人口の急増により現在では7学区に分割され山田村の中心部分であった上小田井地区だけで構成されています.


(14)大野木学区

 昔、大木があったというのが地名の由来とされ、豊かな緑と住宅が調和している学区です.


(15)平田学区

 平田和泉守の居城、平田城があったところですが、現在では井戸跡しか残っていません.従来は水田地帯を中心とした集落でしたが、農地の宅地化に伴い、屋敷の広い旧農家遣り建物と近代的住宅が対照的な町並みとなっています.


(16)浮野学区

 かつて「浮き野」と呼ばれた低混地帯も、いまでは平田住宅をはじめとした住宅地帯と、貸工場などが建ち並ぶ工場地帯という二面性を持つ学区になりました.


(17)中小田井学区

 小田井の名稀は「田水を司どる」意からきたといわれます.水と緑に恵まれた純農村も、庄内川の氾濫に悩まされた歴史を持ち、市の町並み保存地区に指定されている「中小田井」地区には水屋が今も残っています.


(18)比良西学区


(19)比良学区

 比良は平の意だとされ、新川が開削されるまでは水の被害に悩まされる湿地だったと思われます。


名古屋の由来

 名古屋は、古くは尾張国名古野荘に属していたといわれていますが、古来から、名古野、 名古屋、名護屋、浪越などと表わせれています.ナゴヤの語源については諸説があって一定しませんが、「名古屋」に統一されたのは明治3年の名古屋藩監察令によります.


名古屋区

  明治維新の混乱の後、新政府は名古屋に名古屋藩を置きましたが、明治4年の廃藩置県により名古屋県となり、管内を6大区に分け、名古屋と熱田が第1大区とされました.

  翌明治5年名古屋県は愛知県と改稀され、尾張と三河を管轄することになりましたが、この間名古屋は政治の中心地として、県庁、鎮台、裁判所をはじめ各種の官公署が相次いで設置されました.

 その後明11年、大区制が廃止されたことにより名古屋は名古屋区としてはじめて独立の行政区となったのです.当時の人口は11万5000人といわれていますが、明治19年に東海道線が開通し、笹島に停車場が新設されるとともに市勢は西に向かって発展をはじめました。

 美濃路モニュメント


 

 

 



感 想

 私が住んでる所は、大野木で、近くには庄内禄地公園があり、小さい頃よく遠足で行きました.

 名古屋に住んでるわりには知らないことがたくさんあり、この課題をやってすごく勉強になりました.名古屋はもちろんのこと、西区はとてもいい町だと思います.

 お菓子の問屋さんがあってよくテレビでやってると、つい自分家のようにうれしくなったりします.

 あと、この課題をやって一番ピックリしたことは、16区のシンボルマークがあったというのに驚きました.だって、「まる八マーク」があることは知っていたけど区のマークがあるなんて思ってもいませんでした.