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名古屋城下の住居

笹尾知佳


目次

★動 機           

★名古屋城の住居       

☆武家屋敷        

  1. 中級武家屋敷帯   
       
  2. 中級武家屋敷門   
    一東山総合公園植物園内−   
  3. 中級武家屋敷門   
    一東区主税町四一七五 佐藤邸一

☆寺社境内と門前地   

☆町人屋敷       

★感 想          


★動 機

 私は生まれた時からずっと、名古屋市の瑞穂区に住んでいるので瑞穂区の建物(建築)を調べようとしたのですが、あまり有名な建物もなく、図書館に行っても資料が見つからずどうしようかと思っていたら、瑞穂区にこだわらずもっと大きい範囲で考えてみようということにきずき、名古屋市の有名な建築物で歴史がある建築物といったら、名古屋城だと思い、これを調べることになりました。

 しかし、名古屋城をただ調べるのは単純で、面白みがないかと思い、名古屋城ではなく、その近辺(城下町)を調べることにより、普通の民家はどうなっているのか、お城とはどう違うのかを、知ることができたらと考え、名古屋城下の住居にしました。


★名古屋城の住居

 名古屋城下町の基盤割は、近世城下町として、東西にその比を見ない大規模なものだった。城下町は、一般に武家屋敷・寺社境内および門前地・町人屋敷の三つにわかれた。

 

☆武家屋敷

 城は、名古屋台地の北端に位置して造られた。名古屋の場合、「御城(おしろ)」というのは、正しくは、いまの愛知県体育館の北あたりにあった「二之丸御殿」をいうのである。名古屋城は、別名を蓬左城・楊柳城・柳ヶ城・亀尾城・鶴ヶ城といったが、ひろく蓬左城が通用している。

 本丸を中核に、天守・御津井(おふけ)丸・西之丸・二之丸・三之丸と、藩主の住居、軍事施設などを配した。とくに三之丸には、重臣屋敷を配し、他は郭外においた。御付家老(おつけかろう)の成瀬(三万五千右)竹摩(たけのこし・三万石)の両家を、いまの名城病院・愛知警察本部庁舎のところにおいた。一万石家老が三家あって、渡辺家は本町御門、志水家は巾下御門、石河(いしこ)家は清水御門におき、三門を固めた。

 

1.中級武家屋敷帯

 外濠に沿った片端筋に南側に、中級武家屋敷・町奉行所など公庁が横に並んでいた。そこは、奥行「京間・五十間」(後出)で、それに南接して、奥行「京間・五十間」の町屋敷があった。即ち、町人屋敷は、表口を京町筋に出していた。武家・町人屋敷の境界に、幅「京間・一間」の用水を設けて、厳然と区別した。

 

2.中級武家屋敷門 一東山総合公園植物園内−

 もと東区水筒先町にあったものを移設したものである。その祖、又四郎正吉は、織田信長・豊臣秀吉に仕え、のち徳川家康麾下(きか)七騎に一人として武名をあげ、薄祖義直に仕え、二千六百石を所領した。兼松氏は正吉の三男正広(八百石)の孫正豊のときから三之丸から水筒先に移った。この門は江戸時代末期の建造と伝えられるが、武家門としては、格式の高いものといわれている。

 

3.中級武家屋敷門 一東区主税町四一七五 佐藤邸一

 山口の一角にある。このあたりには武家屋敷のたたずまいが残っている。ここは、初代第三師団長黒川通軌の宿舎に当てられて以来、歴代師団長の官舎であったという。のちに陸軍大将となり、首相の印綬をうけた桂太郎もここに住んでいた。そのころ上前津にあった料亭香雪軒の養女花子が目にとまり、夫人に迎えられた。華麗な夫人として名のあった可那子がそれである。佐藤邸は、撤去されて、いま地方職員共済組合「ちからまち」会館になり、武家屋敷門の門扉部を残しているにすぎない。

 

☆寺社境内と門前地

 城下の防衛上から寺院の配置には細心の配意がなされた。寺院の大建築と広大な境内は、軍事的に活用することを想定していたのであろう。それらは兵器の備蓄、要員の隠蔽には最適であったからである。

 名古屋城に例を求めると、成瀬隼人正屋敷の北、旧第三師団司令部のところには、「天王社(いま、那古野神社)・東照宮・公義廟」をおき、本丸正門を固めていたのではなかろうか。集団的には、大須付近の南寺町と、小川町・松山町付近の東寺町があった。散布的には、徳川家菩提所の津土宗建中寺のように境内三万坪(9・9ヘクタール)で城郭の形態を整えたもの。あとにできた東別院・長久手・相応寺といった一万坪(3・3ヘクタール)以上の大規模寺院と、城下町の町割のうちには二百坪(660平方メートル)前後の小規模寺院があった。それらの真宗寺院は在家に入り込んで布教した。武家に関係の深い禅宗・浄土宗・日蓮宗の集団的なものは一千坪(33アール)以上の境内をもっていた。

 南寺町としては、本町通り東側に臨済宗の白林寺・政秀寺・総見寺・浄土宗性高院、曹洞宗万松寺。そのほか真言宗の大須宝生院・七ツ寺や、西本願寺別院、曹洞宗大光院などが名古屋と熱田を結ぶ基幹道路を固めていた。この付近は、大須観音・七ツ寺、東本願寺・西本願寺などの参詣者が多く、典型的な門前町が形成されていた。東寺町のうち、小川町は法華寺町ともいわれ、日蓮宗寺院がならび、松山町・南小川町は禅寺町ともいわれ、曹洞宗の含笑寺・永安寺・長栄寺やその末寺が集団的にあって、飯田街道を固めていた。

 

☆町人屋敷

 基盤割の区割は、久野町から御薗町まで東西十一区割に、片端(外堀)筋から堀切筋(のち広小路)まで南北九区割にし、九十九切(ブロック)を造成したといわれる。

 家康は城下町の軍事的使命よりも、その商業都市としての形態を整えることに重点をおいていたようである。

 名古屋城下町基盤割は、本町御門前から南に開けた町で、武家屋敷と集団的寺院に囲まれていた。基盤割の区割の南北は、本町御門前に近い二町割(ブロック)を短冊型に等分しあとは七等分に区割したのであった。本町御門さきのこつの町割は、家康の特訓によって生じた剰余地を加えたのである。本町御門から熱田の宿に向かって、基幹道路「本町通」をおいた。

 この基盤割については、従来「田舎間(一間=六尺)・一丁六十問正々方々」型とされてきた。それは、道路幅を三間と見込んで、その中から六十間(109メートル)で、両横の道路幅三間(1.5問×2)を控除した五十七間(103メートル)が、町割の幅員であるとされてきた。

 わが名古屋城下町の町割は、確かな方式によって造成されたことがわかってきた。即ち、一町割内に四つの異なった支配下の町が「キネ」型(仮称)に配置され、道賂を挟んで、行政上の「一町」を作っていった。このことについては『名古屋タイムズ』(昭和39・9・28)の「文化」棚が、いち早く報道して注目をひいた。

 万治三年(1660)正月、片端・伏見町交差点付近からの出火によって城下町の大部分が消失したのを機に、堀切筋のうち、久屋町から長者町までの間を十三間(26メートル)に拡幅したのであった。これを広小路といった。

 元禄十三年(1700)堀川西岸一帯の豪商屋敷を火災によって失ったので、復興に当たって豪商街の裏道を幅四間(8メートル)に拡幅し防火兼防衛用として、東側は全部土蔵を並べさせ城壁のようにした。世にこれを「四間道(しけみち)」といっている。しかし、泰平の元禄のころに防衛用として、そうしたことを計画したか、どうかについては疑義がある。ただ単に、名古屋城ならびに城下町に対する生活必要物資の保全のためであったのではなかろうか。


★感 想

 名古屋の町もお寺の位置とか数とかちゃんと考えられて造っているのだなあと思いました。

 名古屋城は昔のまま場所も形もそのまま残っているなだけれど、城下町は昔のままではなく、家は壊されていって、風景ももちろん変わっていってしまっているのだなあと実感しました。今では本当に旧家というのは数えるぐらいになってしまい、ちょっと残念な気がします。

 京蔀とか奈良とか古い町並みが有名な場所はそういう昔ながらの家を壊さず大切にしているので、素敵な町が残るのだなと思いました。だから、名古屋の町も旧家を大切にし、残していけばまた違った素敵な町が出来たと思うと少し残念に思います。でも名古屋にもそういった町並みが昔はあったんだと思うとうれしい気がします。

 そういえば、いつの頃か忘れてしまいましたが、京都か奈良を見学しに行った時、バスガイドさんが「日本で一番お寺が多いのは名古屋です。」と言うのをきいてピックリした記憶があります。その時は、‘うそだ、京蔀が一番多いはず。’と思いましたが、今だと少し納得が出来ます。名古屋も捨てたもんじゃありませんね。ここに生まれて、また住むことができて本当によかったと感じました。